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武田信玄公の御生涯に深い敬慕の念を抱いている、管理人・大膳大夫カツヤの徒然なる日記を紹介致します。


by takedasikon
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武田勝頼の最期

3月11日

この日は、管理人・大膳大夫カツヤにとって感慨深い日であります。

1582年3月11日 甲斐武田氏 天目山において滅亡

武田一族に対して並々ならぬ愛着を抱いている私にとっては…上述したとおり
様々な想いが胸に去来するのです。ナゼ?戦国最強を誇った武田氏が、このように悲劇的な滅亡を遂げることになってしまったのだろうか?

武田勝頼の最期_f0022982_7594152.jpg

   【↑甲斐大和駅に建つ武田家最期の当主・武田勝頼の像】

英雄・武田信玄の天才的な知略によって、貧しい小国・甲斐は日本屈指の強国
として戦国の世に名を轟かせることとなります。

しかし…そんな甲斐武田氏の栄華も、信玄の死後僅か9年で「滅亡」という時
を迎えることになってしまうのでした…。

歴史に興味のある人ならば誰しもが「ナゼあの武田家がこんな最期を?」と首
をかしげる程に武田氏の滅亡は惨憺たる悲劇に彩られています。

武田勝頼は裏切りに次ぐ裏切りによって追い詰められてゆきます…。
領国に侵入してきた織田軍に対して武田家の将士は戦わずして次々と降伏。勝頼は一戦も交えることなく「落人」となってしまうのです(T-T)

戦国最強と近隣諸国から恐れられ…最大動員数5万とも言われた武田軍!
しかし…裏切りに次ぐ裏切り…逃亡に次ぐ逃亡…
勝頼に最期まで付き従った侍は僅か44人…あとは女、子供ばかりでした。

勝頼はそんな彼らを引きつれ…親類衆・小山田氏の籠る岩殿城を目指しますが
この小山田氏も土壇場で裏切り(T-T)
勝頼を匿うどころか城内から鉄砲を撃ちかけてくる始末…

追い詰められた勝頼は僅かな侍そして女・子供を引き連れ天目山・棲雲寺に向
かいますが…その途中の田野で追撃軍に遭遇し最期を迎えるのでした。

*:..。o○☆*゚¨゚゚・*:..。o○☆*゚¨゚゚・*:..。o○☆*゚¨゚゚゚ ・*

僕は毎年…この武田勝頼最期の地へ墓参に出かけます。

いまでも淋しい山道を登るとき…「勝頼主従はどんな気持ちで、この山道を歩
いたのだろう?」
そう思い、涙がこぼれそうになるのです。

武田勝頼の最期_f0022982_961867.jpg

       【↑最期の地に建つ勝頼夫人と侍女たちの石碑】

勝頼は最期にのぞんで、妻子に「落ち延びるように」と説得しますが…
二人は勝頼と共に果てる運命を選びます。裏切りに次ぐ裏切りに打ちのめされ
ていた勝頼にとって…大切な肉親の情愛はどのように映ったのでしょうか?

この勝頼夫人は後妻で、当時僅か19歳でした
勝頼主従の最期の様子を記録した『理慶尼記』の記述によると…勝頼夫人は家
臣の土屋に介錯を頼みますが、土屋はこの美しい少女に刀を突き立てることを
ためらい…なかなか手を下せません。

勝頼夫人はそんな土屋を見て自ら命を絶つことを決意し懐剣を口に含み、うつ
むきに地面に伏します(←想像しただけで痛いですよね:汗)
これを観た勝頼は「姫を苦しませてはならない!」と急いで駆けつけ苦しむ夫人にトドメをさすのでした。

愛する夫人の命を自ら絶たねばならなかった勝頼の胸中はいかばかりであった
か…『理慶尼記』はそんな勝頼の様子をこう表しています。

「御死骸にいだきつき、しばしはものおも宣はず」
つまり姫の亡骸を抱きしめて…暫くの間呆然としていたというのです。
ツライ…

勝頼夫人の辞世の句
「黒髪の乱れたる世ぞはてしなき 思いに消ゆる露の玉の緒」

姫の死に打ちのめされた勝頼に容赦なく追撃軍は迫ってきます!

勝頼は運命を共にする16歳の息子・信勝が不憫でならなかったようで…
「まだ蕾める花が…春が来る前に嵐で落とされるようだ…無念だ」
…と信勝に語りかけますが、信勝はそんな勝頼にニコリと微笑み返し

「まだき散る花と惜しむな おそくとく ついに嵐の 春の夕暮」

と歌を詠みました。悲劇的な最期にあっても父・勝頼を慰める優しい信勝に対
して勝頼は「深き涙にむせびたまひて」返事をすることが出来なかったと伝え
られています。
武田勝頼の最期_f0022982_955666.jpg

こうして甲斐武田氏は滅びました。
勝頼一家が自刃する前日…姫は勝頼に対して次のように語ったと言われていま
。「私たちの縁は一つ蓮の上の縁と信じています。この思いは、生のあらん
限りは元よりも…死して後も変わりません」

この言葉が実現したかのように…最期の地に建立された景徳院という寺院には
寄り添うようにして、三人のお墓がひっそりと佇んでいます。

この墓前に手を合わせるとき…死後の世界で彼らが安らかに、幸せであります
ように…と、願わずはいられません。

悲劇的な最期にありながら…彼らは「残された僅かな時間」の限り、その絆を
深め確かめあったように思えるのです。

彼らの最期は、もしかしたら私たちが思う以上に安らかで幸せなものだったの
かもしれません。…想像というよりは、そうあって欲しいという僕の願望なの
ですが(爆)

天目山の墓参を済ませた後は…ナゼか不思議な出来事が続きます(笑)
それまで降り続いていた雨が突然止んで物凄く綺麗な夕日が顔を出したり…また墓参の帰り道、頭上には何もなく空が広がっているだけなのに、僕の歩く後に「ポッ」と音を立てて空から小石が落ちてきたり(笑)

僕は霊などを信じる性質ではありませんが、そんなときは。。。
「あ~♪勝頼さんも喜んでくれているな」 そう思うようにしています。


『理慶尼記』について

今回の記事を書くにあたり下敷きとした『理慶尼記』は別名「武田勝頼滅亡記」ともいわれ、天正十年三月の武田氏滅亡の様子を記したものとなります。

記録者の理慶尼は武田信玄の従姉妹にあたる「勝沼五郎信友の娘」。彼女は出家し尼となり勝沼の大善寺に入っており、武田氏滅亡の際には逃亡中の勝頼一行を寺内でもてなしました。その際に記録したものが今回紹介した記録…ということになります。

ただ、この史料は後世になって何者かが理慶尼に仮託して製作した小説であるという意見もあり、この史料を疑問視する学者も居るということを付け加えておきます。

by takedasikon | 2006-03-12 10:28 | 武田信玄