春の陽気が心地よい今日この頃ですね♪風がとても爽やかで…どこか旅に出た
くなるような季節です。自宅の周辺では桜の蕾が咲く時を待っています。。。
またしても雑談ですが…(汗)
僕は趣味で週に1~2回、居合道の稽古に出かけるのですが…昨日は道場に向か
う電車の中、僕の隣に2~3歳の可愛らしい女の子が座りました。
その子は、春の陽光がとても心地よいらしく…途中でぐっすりと眠り込んでし
まいました。隣に座る僕にグターっと寄りかかるようにして眠ってます(爆)
彼女の母親が「すみません」と慌てて女の子を起こそうとしましたが…
あまりにも気持ちよさそうに寝ているので「大丈夫ですよ」…と、暫し彼女の
「止まり木」になってあげました(笑)春ですなぁ~♪とても暖かかった。

さて!このところズーット(笑)武田信玄と上杉謙信の比較をしてきました。前回は両雄のポエムなどについても言及してみました♪
先日はWBCで日本代表が世界一の栄冠を勝ち取り、興奮しましたが…。野球
にせよサッカーにせよ自分が贔屓するチーム!または人物が居るからこそエキサイトすることができる!
武田信玄と上杉謙信にも、それぞれを信奉する「熱いファン」が居るからこそ合戦談に熱が帯びてくる…(^-^)
上の写真は、川中島八幡原古戦場に建つ武田信玄と上杉謙信の銅像です。
八幡原の古戦場は人気の観光スポットなのですが…この場所は、信玄ファンと謙信ファンが交差するスポットなので…この長閑な観光地でも両雄のサポーターによる「熱い戦い」が繰り広げられているのです(爆)
「うぉーっ!やっぱりカッコイイ~」などと興奮しながら見学する僕…
目の色を変えながら見学を楽しむ僕は、異彩を放っているのでしょうか?
この古戦場では、しばしば見ず知らずの歴史ファンに声をかけられます。
「武田信玄ファンですか?上杉謙信ファンですか?」
僕は年季の入った信玄ファン…相手も信玄ファンならば話も弾みますが…上杉謙信ファンだと途端にバトルがはじまります(爆)←喧嘩じゃないですよ
「やはりこの戦いは上杉謙信の勝ちでしょう…」
「いやいや…武田信玄の勝ちだと僕は思いますよ…」
↑いちおう笑顔で話しています(爆)
なんだかクドクドと…
両雄のファンのことについてばかり書いてしまいました…
ナゼ両者は宿命的な戦いを繰り広げなければならなかったのでしょうか?
一般的に「川中島の戦い」と呼ばれる武田信玄と上杉謙信との戦い…
この戦いは足掛け12年に渡り計五回行われたと考えられています!
<第一回目の合戦>布施の戦い(1553年)
<第二回目の合戦>大塚の対陣(1555年)
<第三回目の合戦>上野原の戦い(1557年)
<第四回目の合戦>八幡原の戦い(1561年)
<第五回目の合戦>塩崎の対陣(1564年)
こうしてみると2~3年おきに両雄が戦っていたことがわかります。
しかし…これらの戦いの殆どは「睨み合い」に終始しており、両者が真正面からぶつかり合った激戦は「第四回目・八幡原の戦い」ということになります。
一般的に言われる「川中島決戦」とはこの四回目の戦いを指すものです。
特にこの決戦は…武田軍・上杉軍合わせて4万人近い軍勢が血まみれになって戦い…両軍合わせて8千人もの戦死者が出たと言われています(怖)つまり合戦に参加した者の5人に1人が死んでいったのです…驚くべき殺戮戦と言えるでしょう…。
信玄と謙信はナゼこのような血みどろの戦いを演じなければならなかったのか?両者は常々次のような言葉を口にしていたと言われます。
武田信玄の場合

「後途の勝ちのため…」
すなわち領地を広げ…自らの国を豊かにするために戦争をするというのです。
上杉謙信の場合

「弓矢の正しきによる…」
すなわち国のためではなく「正義」のために戦争をするというのです。
戦いの目的まで全く異なる両雄…
さてさて!次回からはいよいよ川中島合戦について書いてゆきたいと思いますが…今宵はこれまでに致しとうござりまする(←若尾文子風に:苦笑)
-つづく-
当ブログは「歴史ブログ」のランキングに参加しております。もしも記事の内容を気に入って頂けたならば、上のバナーをクリックして下さると嬉しいです(≧▽≦)
前回は、宿命のライバル武田信玄と上杉謙信について…
両雄が作った詩を通して比較しようとしましたが…(汗)なんだか余談にばか
り逸れてしまい…結局ナポレオンと伊達政宗について書いたところで終わって
しまいました。とほほほほ…(^^;
そうそう!昨日のWBCは興奮しましたね~!イチローカッコよすぎです♪
爽快爽快!なんでもTBSのLIVE中継は視聴率50%を越えたとか…
…なんてことを書いていたら、また本題から外れてしまいますね(自爆)
(↑若干確信犯です:苦笑)
さてさて!では武田信玄と上杉謙信に話を戻しましょう…(笑)

【大膳大夫カツヤ所蔵 五雲亭貞秀作 川中島大合戦】
武田信玄と上杉謙信は言わずと知れた戦国屈指の名将ですが…
名将であると同時に、当代きっての教養人・文人でもありました。両雄は合戦
と領国経営の合間に、数多くの詩歌を後世に残しています。
信玄と謙信…両雄が自然と醸し出す「風雅を愛する雅なインテリ像」は、戦国バブルの寵児のような織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの…所謂「成り上がり大名」には、あまり見られない傾向と言えるでしょう(失礼:笑)
【↑逆に彼らには信玄や謙信には見られないような新しさが感じられて魅力的なのですがね♪】
たまには、前回紹介した伊達政宗のように傑出した芸術家肌の武将も現れますが…信玄と謙信の芸術性には、他と一線を画すような格調の高さ…気高さ…高貴なオーラを感じずにはいられません。
そういう意味において信玄と謙信は、混沌とした下克上の世には何だか似つかわしくない(笑)王朝時代の典雅な香りのする特異な武将と謂わざるを得ません。なんだか…「源平の時代から突然、混沌とした戦国時代にタイムスリップしてきた…貴族としての武士…」というような印象を受けてしまうのです。
長講釈が過ぎますね(苦笑)
それでは実際に両雄の漢詩を見てゆくことにしましょう!
まずは上杉謙信の有名な漢詩から…

霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁 月に三更
越山併せ得たり能州の景
遮漠(さもあらばあれ)、家郷のものの遠征を思うは
とっても爽やかで古武士らしい謙信の心情が窺えるような詩でしょ♪
何だか月光を浴びながら…詩作に耽る謙信が脳裏に浮かび上がって来るような気がして…僕はこの詩が大好きなのです(^-^)
余談になりますが、上杉謙信は大の酒好きでした。
戦場に在るときもお酒を嗜んでいたようで…謙信が愛用したという「馬上杯」
が現在まで伝わっています。馬上杯とは…その名の如く、戦場で馬に乗りながらお酒を呑む為に作られた杯です!よほどお酒が好きだったんでしょうね♪
…そんな謙信の辞世の詩…

一期の栄華 一杯の酒
四十九年は 一睡の間
生を知らず また死も知らず
歳月ただ夢中の如し
自分が一生をかけて築き上げた栄華は「一杯の酒」に等しい。
四十九年の生涯は一睡の夢のようだ…。戦場に生き!戦場に死んでいった男の「悟りの境地」でしょうか…?やはり謙信は爽やかな男だったようですね♪
つづいては武田信玄の漢詩を見てみましょう…

春山笑うが如し
簷外(えんがい)の風光分外新たなり
簾を捲いて山色吟味を悩ます
孱(さん)顔も亦蛾眉の趣き有り
一笑あい然として美人の如し
なんだか凄く難しい詩ですね(汗)
それだけに信玄の持つ学識の深さと感性の豊かさが垣間見れる詩です。
意味を簡単に訳すと…
軒先から独り、簾をまいて遠い山々を見た。険しい山肌も春の陽光に溶けている。たなびく雲間から見る春の景色は…ほほえむ美女のように美しい。私は詩作もままならずに…その春の美しさに身をこがしている…
春の美しさに身をこがす…とか…ほほえむ美女のように美しい…とか…
なんだか信玄の表現は可愛らしいですね(笑)
とても真面目な人柄で…感受性豊かな信玄の実像が垣間見れます♪
つぎに信玄の有名な和歌を御紹介致しましょう♪

さそはずは くやしからまし桜花
さねこん頃は 雪の降る寺
この歌には一つの情景が付随します…
ある日…信玄の親友・快川和尚が信玄に使いを送りました。
「お寺の山門の両袖の桜がようやく咲き始めました。この花の下に一席を設けてお待ちしております…是非いらして下さい」
信玄は出陣などで何かと忙しかったのですが…「花というのに参上しないのは野暮だな…」ということで立ち寄ることにしました。そして寺の僧侶たちと挨拶を交わすと…家臣に紙と硯を用意させて上の歌を詠んだのでした。
(意味)
桜の花に誘われて…今日来なければとても後悔したことでしょう。
また次に、この寺を訪ねる頃には雪見の季節になっているのでしょうか…。

宿命のライバル武田信玄と上杉謙信…いかがですか?
彼らが勇猛な武将であるばかりでなく、とても繊細で高貴な詩人であったことが御理解頂けたかと思います。
戦国という過酷な時代に生まれ…戦い続けることを運命付けられた二人…
もしも二人が、平和な時代に生まれたならば…意外と酒を酌み交わして詩を語る「無二の親友」になったりしていたのではないかな…(笑)僕は時々そう思うことがあります。
詩人としても並び立つ両雄…
さてさて…あなたは武田信玄派?それとも上杉謙信派?
僕は二人とも大好きです♪(爆)
-つづく-
当ブログは「歴史ブログ」のランキングに参加しております。もしも記事の内容を気に入って頂けたならば、上のバナーをクリックして下さると嬉しいです(≧▽≦)
特別企画ということで進めている「宿命のライバル・信玄と謙信」ですが…
前回はたっぷりと「信玄の兜」について…つまり、マニア以外の人にとっては「どーでもいい話(笑)」をタップリと語ってしまいました(苦笑)
今回も(!?)少し違う視点から宿命のライバル「武田信玄と上杉謙信」について見てゆきたいと思います。
さてさて…
私事ですが、3月17日(金曜日) 学校からの帰り道…少し寄り道をして神
戸市立博物館で開催されている「ナポレオンとヴェルサイユ展」を楽しんでき
ました。この展覧会はナポレオンの皇帝戴冠200年を記念して開催されている展覧会で…ナポレオンに関する貴重な美術品が多数公開されています♪

実はこの展覧会に足を運ぶのは2回目だったのですが…「こんな機会は滅多にない!」ということでもう一度足を運んだのです。2時間かけてゆっくり堪能してきました。…そう僕はナポレオンという人物が大好きなのです♪
ナポレオンは…その言葉が詩的なリズムを持っていて美しいですよね。
僕が始めてナポレオンに興味を持ったのも彼の詩的な言葉が起因でした。
ナポレオンの言葉として有名なもの…
「余の辞書に不可能という文字はない」などは超有名ですよね(笑)
僕の弟などは「ナポレオンってわざわざ【不可能】って文字のない辞書を持ち歩いて有名になった人だろ?」なんてアホなことを信じていたようですが…(↑救いようのないバカですね:爆)
さにあらず(^-^;)…ナポレオンは、冬の険しいアルプスを越えて「冬のアルプスを越えて攻めてくるなんて有り得ない!」…と油断している敵に奇襲をかけます。当然ながら、ナポレオンの兵達はビビリまくりました(笑)
「ええ~!マジで~!冬のアルプスを越えるなんて不可能だろ!!」
そんな時にナポレオンは兵士を鼓舞する為に口にしたのです!「余の辞書に不可能という文字はない!」…このエピソードの真贋はさて置き!
…ポエムですよね♪この言葉…。上の写真はそんなナポレオンのアルプス越えの様子を描いたものです。
その他にも「諸君見よ!あのピラミッドの頂きから4千年の星霜が諸君達を見下ろしている!」…なんて言葉はシビレます(僕だけかな?:苦笑)
歴史マニアでもあったナポレオン…「余の偉業はアレクサンダー大王やチンギスハンに比べれば遠く及ばない」なんて言ったり、アルプス越えをする際の自分を、名将ハンニバルやカール大帝になぞらえたり…(笑)どうも、ナポレオンは、後世の人たちに自分の生涯を「詩」として演出しようとしたんじゃないかな?僕にはそう思えるのです。こう考えると…ナポレオン、なんだかお茶目ですよね♪
後世の世に自分を「詩」として伝えようとする…
我が国で言えば伊達政宗などがその部類に該当するでしょうか?
政宗は…見方によれば物凄く「芝居上手」な武将といえます。周囲をアッと言
わせるようなパフォーマンスで過酷な戦国の世を泳ぎぬけました。♪
彼は武将としても一流ですが、詩人としても有能でした…(↓政宗騎馬像)

中でも次の漢詩は晩年の政宗が作った高名な傑作と言えるでしょう。
馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し
残軀天の赦すところ 楽しまざるをこれ如何せん
若い頃は戦争に次ぐ戦争で…その大半を費やした。世の中が平和になった現在
気がつけば自分は白髪頭の老人になっていた。天の赦すところ残りの人生を楽
しもうじゃないか。…とそんな感じの漢詩ですね♪
一見…長閑な好々爺が作ったような印象を受けますが…
僕の個人的な感想としては…「あの一筋縄ではいかない政宗が…有り得ないだろ?(苦笑)」…と思ってしまいます(爆)数々の修羅場を潜り抜け…自らを英雄と自認していた政宗です。
天下を獲れず、一介の大名に甘んじてしまった自分の、忸怩たる想いを押し殺
しながら…この「漢詩」で、後の世に対して「芝居」を演じているのではないでしょうか?きっと政宗はナポレオンのように自分の生涯を一遍の「詩」として捉えていたのだろう…僕にはそう思えるのです。
なんだか物凄く長文になってしまいました。。。ヤバイ…
ここで主題となる信玄と謙信ですが…彼らは文句なしの教養人で、戦国時代屈
指の詩人です。さすが伝統ある名家に育った二人…その完成度は他の戦国大名と比べても一歩抜きん出ています。
特に武田信玄の漢詩などは…京都の公家たちからも注目されていた形跡があり
ます。凄いですよね…
この両雄の詩を比較しようとしたのですが…あまりにも長文になりすぎてしまったので次回に回します(苦笑)信玄と謙信…というよりはナポレオンと伊達政宗で終わってしまったなぁ…。

なんだか表題と内容がかけ離れてしまったので…
最後に「信玄と謙信の一騎討ち像」をささやかながら掲載しておきます(^^;
-つづく-
当ブログは「歴史ブログ」のランキングに参加しております。もしも記事の内容を気に入って頂けたならば、上のバナーをクリックして下さると嬉しいです(≧▽≦)
-Mai殿からの質問 諏訪法性兜について-
前回から始めた記念企画、『宿命のライバル -信玄と謙信-』ですが…
管理人の友人Mai殿から次のような質問がありました。
質問。信玄なんで白髪?引き分けってどうやっておわったんやろう?
お互い疲れたから休憩しよっかぁって???
実はこの質問よく受けるのです…
知人などが自宅に遊びに来たときには、よく「これ何?」と僕の「信玄コレクション」が度々いじられます(笑)
僕も信玄の話をしたりするのは大好きですから…(≧▽≦)
「これがねー。川中島合戦を描いた浮世絵。これが信玄の掛け軸…」
なんて言いながら、コレクションを拡げて見せてあげます。
…そういうときによく言われるのです…
「うわぁ~!信玄の白髪凄いね!物凄いロン毛ですやん♪」
…( ̄□ ̄;)!!
ち…違うよ~!信玄は白髪のロン毛なんかじゃないよ~(笑)
あれはね。兜なのです。信玄のトレードマークとして定着している有名な「諏訪法性兜」という兜なのです。。。
もう一度…管理人所蔵の『川中島大合戦』を見てみましょう…

う~む。。。確かに白髪に見えるのかもしれませんね(爆)
「絵」だから白髪に見えてしまうのかもしれない…では次に実写の写真を見てみましょう♪それが↓です!

こうして見ると白髪ではなく兜だ!…ってことが分かるかと思います(笑)
この「諏訪法性兜」は武田信玄のトレードマークとなっており…
近世になってから描かれた武田信玄の画像の殆どは、この兜を着用して描かれ
ています。映画やドラマなどで登場する武田信玄も必ずと言って良いほどに、
この兜を着用しています。逆に言えば…この兜を着用していない信玄はなんだか信玄には見えなくなってしまうのです(笑)
『甲陽軍鑑』などによると、この兜は諏訪大社で祓い清められた兜で…
諏訪大明神を信仰する信玄が常に戦場へ携行していた兜だと伝えられます。
現在下諏訪町立博物館には、この諏訪法性兜であるとして下のような兜が保存されており、僕もこの兜には博物館や特別展示会などで何度かお目にかかったことがあります。(この兜の真贋については後述しますね)

【下諏訪町立博物館の解説】
兜作り日本一の明珍信家の作。四百年前、信家が諏訪神社に寄進し武田信玄に与えられた。信玄は戦のたびにかぶって出陣し大勝を果たしました。没後諏訪神社にお返しになり、上下社で話し合いがつかず下諏訪町で譲り受けて展示しています。
兜の周りには「兜蓑」として中国舶来のヤクの毛が植毛されています。
「兜蓑」とは兜の雨湿乾燥を防ぐためと威嚇的装飾を兼ねて獣毛羽毛などを兜につけたもので、この風習は室町時代中頃から見られます。当時舶来モノのヤクの毛は非常に高価な品物で、お洒落な武士たちは羨望の眼差しでヤクの毛のついた兜をみつめていた…と、伝えられています♪(笑)
ちなみに上に掲載した諏訪法性の兜ですが…
兜鉢(ヘルメット部分)は古様を示すのですが…その他の付属品は全て江戸時代に入ってから作られたものなのだそうです。つまり後世の信玄人気に便乗して「これこそが信玄公の諏訪法性兜なのだ!」ってな感じで作られたものであると考えられます(笑)実物の諏訪法性兜は現在に伝来しておらず…残念ながらどのような兜であったのかは「謎」になってしまいました。。。
-オマケ(笑)-
信玄の兜のヤクの毛…どやって兜に植毛されているのか不思議じゃありません
か?僕は以前から不思議に思っていました(笑)
ということで「植毛法」を調べてみました!
まず白く染めたヤクの毛を用意いたします。これを兜の鉢(ヘルメット部分)に、麦漆(漆と小麦粉を練った接着剤)で植毛してゆくのだそうです♪
まさにアデランス…リーブ21の世界ですね(爆)
↑当ブログは「歴史ブログ」のランキングに参加しております。宜しければ一日に一回クリックして下さると嬉しいです(≧▽≦)
昨夜確認してみると…どうやら来訪者777人目のキリ番を僕自身が踏んだようです(笑)これも偏に当ブログを支えてくださる貴殿ら…もののふ方のおかげでございます♪ ありがたや…(^-^)
そこで今回も「キリ番記念企画」ということで…恒例になった(苦笑)僕の
「信玄コレクション」を公開したいと思います♪
今回のコレクションは…これです!じゃじゃーん♪

五雲亭貞秀作 『甲越川中島大合戦』
知っている人は知っている…(笑)
有名な「武田信玄と上杉謙信の一騎討ち」を描いた江戸時代の錦絵です。
この錦絵は、山梨県で販売されているお土産「信玄軍配」というバターサンド
のパッケージにも使用されているのですよー(←どーでもイイ話:笑)
信玄VS謙信
激戦の最中…一気に雌雄を決せんと、単身白馬にまたがり武田軍の本陣に乗り
込んだ上杉謙信!宿敵武田信玄をみつけるや疾風のように駆け寄って馬上から
電光石火!信玄に斬り付けます。(画面右の武者が謙信)
一方の武田信玄は正に泰然自若!突然襲い掛かってきた謙信の太刀を、刀も
抜かず…手にしていた軍配団扇でカキーンと受け止めるのでした♪
画面左で床几に腰を下ろし、軍配をかざしている武将が武田信玄です!
戦国時代のハイライトともいえる信玄と謙信の一騎打ち…。
三枚続きの横に長細い作品なのですが…なかなか写真に撮り辛くて…(汗)
止む無く左の二枚を中心にして撮影した写真が↑です。
上の写真に掲載することの出来なかった右側では、主君・信玄を守ろうとして
謙信に槍を突きつける武田家の武士・原大隅守さんが頑張ってます。
少し気の毒なので(笑)
頑張る原大隅君にも登場して頂きましょう♪ めっちゃ頑張ってる原君です↓

川中島合戦の魅力は…伝説的な名将である武田信玄と上杉謙信が鎬を削る大合
戦であったこと。両者の知恵比べの面白さ。両雄の一騎討ち…
そして最大の要因は…両者が互いに日本史屈指のスーパースターであり、それ
ぞれを信奉する熱烈なファンが存在すること!そして…この名勝負が勝敗の付
かないまま…引き分けに終わっていること…。そこに求められると思います☆
かの荻生徂徠は煎り豆を齧りながら戦国武将談義をすることが最大の娯楽であ
る!…と述べていますが、「川中島合戦の勝者はどちらか?」というテーマは
歴史ファンのロマンを掻き立てるのに正に格好のテーマと言えるでしょう♪
当然ながら…上杉謙信ファンは「あの戦いは上杉謙信の勝ちだ!」とエキサイトしますし…武田信玄ファンは「なーに!武田信玄の勝ちさ!」とエキサイトします(笑)両者譲りません…
かく言う僕自身も…昔はよく上杉謙信ファンの知人と議論をしました…
「なーに言っとるんだ!武田信玄公の勝ちに決まってんだろー」
…って、感じで(苦笑)
信玄と謙信は…数百年を経た現代においても、それぞれのファンの中で生き、
そして戦い続けているのかもしれません(笑)
そこが川中島合戦の魅力なのかもしれないですね~(^^;
さてさて…あなた御自身は…信玄派?それとも謙信派?どちらですか?
-つづく-
この日は、管理人・大膳大夫カツヤにとって感慨深い日であります。
1582年3月11日 甲斐武田氏 天目山において滅亡
武田一族に対して並々ならぬ愛着を抱いている私にとっては…上述したとおり
様々な想いが胸に去来するのです。ナゼ?戦国最強を誇った武田氏が、このように悲劇的な滅亡を遂げることになってしまったのだろうか?

【↑甲斐大和駅に建つ武田家最期の当主・武田勝頼の像】
英雄・武田信玄の天才的な知略によって、貧しい小国・甲斐は日本屈指の強国
として戦国の世に名を轟かせることとなります。
しかし…そんな甲斐武田氏の栄華も、信玄の死後僅か9年で「滅亡」という時
を迎えることになってしまうのでした…。
歴史に興味のある人ならば誰しもが「ナゼあの武田家がこんな最期を?」と首
をかしげる程に武田氏の滅亡は惨憺たる悲劇に彩られています。
武田勝頼は裏切りに次ぐ裏切りによって追い詰められてゆきます…。
領国に侵入してきた織田軍に対して武田家の将士は戦わずして次々と降伏。勝頼は一戦も交えることなく「落人」となってしまうのです(T-T)
戦国最強と近隣諸国から恐れられ…最大動員数5万とも言われた武田軍!
しかし…裏切りに次ぐ裏切り…逃亡に次ぐ逃亡…
勝頼に最期まで付き従った侍は僅か44人…あとは女、子供ばかりでした。
勝頼はそんな彼らを引きつれ…親類衆・小山田氏の籠る岩殿城を目指しますが
この小山田氏も土壇場で裏切り(T-T)
勝頼を匿うどころか城内から鉄砲を撃ちかけてくる始末…
追い詰められた勝頼は僅かな侍そして女・子供を引き連れ天目山・棲雲寺に向
かいますが…その途中の田野で追撃軍に遭遇し最期を迎えるのでした。
*:..。o○☆*゚¨゚゚・*:..。o○☆*゚¨゚゚・*:..。o○☆*゚¨゚゚゚ ・*
僕は毎年…この武田勝頼最期の地へ墓参に出かけます。
いまでも淋しい山道を登るとき…「勝頼主従はどんな気持ちで、この山道を歩
いたのだろう?」そう思い、涙がこぼれそうになるのです。

【↑最期の地に建つ勝頼夫人と侍女たちの石碑】
勝頼は最期にのぞんで、妻子に「落ち延びるように」と説得しますが…
二人は勝頼と共に果てる運命を選びます。裏切りに次ぐ裏切りに打ちのめされ
ていた勝頼にとって…大切な肉親の情愛はどのように映ったのでしょうか?
この勝頼夫人は後妻で、当時僅か19歳でした
勝頼主従の最期の様子を記録した『理慶尼記』の記述によると…勝頼夫人は家
臣の土屋に介錯を頼みますが、土屋はこの美しい少女に刀を突き立てることを
ためらい…なかなか手を下せません。
勝頼夫人はそんな土屋を見て自ら命を絶つことを決意し懐剣を口に含み、うつ
むきに地面に伏します(←想像しただけで痛いですよね:汗)
これを観た勝頼は「姫を苦しませてはならない!」と急いで駆けつけ苦しむ夫人にトドメをさすのでした。
愛する夫人の命を自ら絶たねばならなかった勝頼の胸中はいかばかりであった
か…『理慶尼記』はそんな勝頼の様子をこう表しています。
「御死骸にいだきつき、しばしはものおも宣はず」
つまり姫の亡骸を抱きしめて…暫くの間呆然としていたというのです。
ツライ…
勝頼夫人の辞世の句
「黒髪の乱れたる世ぞはてしなき 思いに消ゆる露の玉の緒」
姫の死に打ちのめされた勝頼に容赦なく追撃軍は迫ってきます!
勝頼は運命を共にする16歳の息子・信勝が不憫でならなかったようで…
「まだ蕾める花が…春が来る前に嵐で落とされるようだ…無念だ」
…と信勝に語りかけますが、信勝はそんな勝頼にニコリと微笑み返し
「まだき散る花と惜しむな おそくとく ついに嵐の 春の夕暮」
と歌を詠みました。悲劇的な最期にあっても父・勝頼を慰める優しい信勝に対
して勝頼は「深き涙にむせびたまひて」返事をすることが出来なかったと伝え
られています。

こうして甲斐武田氏は滅びました。
勝頼一家が自刃する前日…姫は勝頼に対して次のように語ったと言われていま
す。「私たちの縁は一つ蓮の上の縁と信じています。この思いは、生のあらん
限りは元よりも…死して後も変わりません」
この言葉が実現したかのように…最期の地に建立された景徳院という寺院には
寄り添うようにして、三人のお墓がひっそりと佇んでいます。
この墓前に手を合わせるとき…死後の世界で彼らが安らかに、幸せであります
ように…と、願わずはいられません。
悲劇的な最期にありながら…彼らは「残された僅かな時間」の限り、その絆を
深め確かめあったように思えるのです。
彼らの最期は、もしかしたら私たちが思う以上に安らかで幸せなものだったの
かもしれません。…想像というよりは、そうあって欲しいという僕の願望なの
ですが(爆)
天目山の墓参を済ませた後は…ナゼか不思議な出来事が続きます(笑)
それまで降り続いていた雨が突然止んで物凄く綺麗な夕日が顔を出したり…また墓参の帰り道、頭上には何もなく空が広がっているだけなのに、僕の歩く後に「ポッ」と音を立てて空から小石が落ちてきたり(笑)
僕は霊などを信じる性質ではありませんが、そんなときは。。。
「あ~♪勝頼さんも喜んでくれているな」 そう思うようにしています。
『理慶尼記』について
今回の記事を書くにあたり下敷きとした『理慶尼記』は別名「武田勝頼滅亡記」ともいわれ、天正十年三月の武田氏滅亡の様子を記したものとなります。
記録者の理慶尼は武田信玄の従姉妹にあたる「勝沼五郎信友の娘」。彼女は出家し尼となり勝沼の大善寺に入っており、武田氏滅亡の際には逃亡中の勝頼一行を寺内でもてなしました。その際に記録したものが今回紹介した記録…ということになります。
ただ、この史料は後世になって何者かが理慶尼に仮託して製作した小説であるという意見もあり、この史料を疑問視する学者も居るということを付け加えておきます。
つまり「コメント欄」にカキコミをして下さっている方々…申し訳ありませ
ん!早く返信しなければ…と思っているのですが(T-T)
大幅に更新&返信が遅くなってしまっています。。。
誠に申し訳ありません!
今日も今から出なけらばならないので…再度更新が遅れますが…
早めに返信しますので…
何卒ご勘弁を…

…何気に「謝っているポーズ」っぽいタイ王国のドナルド君に登場して頂きま
した。話は変わるけど…こんなことを思うのは僕だけ?
マクドナルドのキャラクターのドナルドって…
不気味じゃないですか?
こんなヤツが街角から出てきたら…僕ならば確実に逃げ出します!
スティーブン・キング原作の「It」みたいだよね(汗)
自分の故郷だから? それとも海があるから? それとも山があるから?

めぐりめぐる 青い地球で
生まれ 生きる意味は Love is You
例え君が何処にいても きっと探し出せるから
大袈裟な話題を止めて もう一度 抱きしめたい
浅岡雄也「めぐりめぐる ~Love is you~」より
ふいにこの歌の、この歌詞を思い出した…。
浅岡雄也さんは僕の大好きな歌手だ♪ 彼の音楽を聴かずに過ごす一日という
ものは僕の中では「まずあり得ない」(笑)
上を見上げた時に…空しか見えない。そんな空を見たことがありますか?
上を見ながらズンズン歩く…どこまで歩いても青い空と白い雲しか見えない。
街中で空を見上げる…ビルとビルの合間から…青い空が見える。
朝起きて窓から空を見上げる。青い空の下に広がる街並みに目が行ってしまう…。
僕は第二期ポートアイランドに散歩に行くと。いつもこの「空の広さ」を楽し
みます。物凄く驚かされる。新鮮な視点だ…
「空ってこんなに広かったのか?」
周囲に遮蔽物がないからでしょうか?
広がる限りの空に出会えるのです。もしも第二期に行かれることがあれば試し
てみてください(笑) きっと空の広さに驚かれることと思います♪
…考えてみれば当たり前のことかもしれない。
僕らは何処へいこうと…必ずこの空の下に居るのだから。空は地の果てまで
続き…海よりも広い筈なのです。
遠く離れて暮らす人が居るとする。もう会えない人が居るとする。
そんな時に空を見上げる。必ずその空はその人まで続いている♪ 不思議だ…
ある人から訊いたことがある。
「いつも傍にいるのに。見ようとしなければ見れない…それが空だ!」
いつも傍にある…そんな「素敵な存在」に盲目的にはなっていないだろうか?
失くした後になって…はじめてその存在に気付くなんて悲し過ぎる。
何処にいても…離れていても…傍にいても…
もう一度抱きしめてあげたい。
先週の金曜日…つまりお雛様の日には映画を観に行きました。
最近映画ばかり観ています(汗)明日は『ナルニア国物語』を観に行くし…
(笑)先月は試写会のチケットに当選したので『サイレン』という映画を観に
行きました♪ 映画の感想については、またこのブログで紹介しますね☆
さて…この日に観に行った映画は『ウォーク・ザ・ライン-君に続く道』とい
う映画です。あまりご存知ないかもしれません…。
伝説的な歌手・ジョニー・キャッシュの生涯を描いた映画。実は今年度のアカ
デミー賞に…この映画の主演男優賞と主演女優賞がノミネートされているので
す!何気に凄い映画でしょ?(笑)

僕はこの映画を観るまでジョニー・キャッシュという歌手を知りませんでし
た。60年代のカントリーミュージックの大家で…ボブ・ディランやローリン
グストーンズなどに多大な影響を与えた人らしいです。
けれども…僕はそんなコト知らないから…
どうしても主役のジョンを演じるホアキン・フェニックスが『グラディエイ
ター』のコモドゥス帝に見えて仕方が無い(爆)
ジョニー役のホアキンがスクリーンに映し出される度に…
おお!皇帝自らがギターを弾いておられる!
なんて考えてしまう…あと…ジョニーの恋人・ジューンを演じるリーズ・ウィ
ザースプーンがスクリーンに映し出される度に…
物凄いシャクレ顎だ…猪木も真っ青だな…
なんて考えてしまう(苦笑)
僕の性根はよほど曲がっているらしい…変な粗探しばかりしてしまう(笑)
洋画を見ているとよくあることではあるが…登場人物の名前がイニシャルで
字幕に表示される…この映画でも「JR」というのが出てきた…
じぇ…JR( ̄□ ̄;)!!
……前言撤回!性根が曲がっているのではない…僕は単なるバカだ(笑)
さて…気になる映画の中身は…一言で言うならば…
「甘えた親父」のダメダメ人生…ヘタレ日記
…と言ったところでしょうか(苦笑) 劇中のジョニー…本当にダメ男なんで
す。浮気はするは…薬に手を出して廃人になってしまうは…我侭だは…絵に描
いたようなダメ男の模範例!
…僕から見れば「死んでも娘を嫁にやりたくない男No1」って感じなので
す。案の定、劇中でのジョニーは家族にも見放され孤独な人生を送ることに
なってしまう(T-T)
そんな彼を救うのがアゴ…(失礼) リーズ演じるジューンなのです。
正確に言えば彼女の家族なのかな…?家族に見放された孤独なジョニーを見つ
めるジューンのご両親の目は慈愛に満ちています。
「彼は家族に見放された。あなたまで彼を見捨ててしまうのかい?」
ジューンの家族はまさに身を投げ出して薬に溺れたジョニーを守り…その中で
ジョニーは次第に人間性を取り戻し「薬」との決別を果たすのでした。
このシーンには少し涙腺が緩みました(T-T)
映画のタイトルにもなっている「ウォーク・ザ・ライン」はジョニーの歌った
曲のタイトルでもあり…真っ直ぐに歩いてゆこうとする決意を表した曲なのだ
そうです。
http://www.foxjapan.com/movies/walktheline/
【↑この映画の公式サイトはこちらです…】
さて問題です!
この映画の中でホアキンは何回「ジューン」と呟いているでしょう?
答えは映画を観て数えてください…(笑)